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小川 知子(おがわ ともこ、1949年1月26日 - )は、日本の女優・歌手。広島県広島市生まれ、東京都北区育ち。 1970年前後に、人気アイドル歌手として有名になる〔"アイドル"という言葉自体が、社会的に認知されたのは、天地真理、小柳ルミ子、南沙織らが揃ってデビューした1971年の事だが、これ以前の小川、伊東ゆかり、奥村チヨを"元祖アイドル"とする見方もある(竹内義和著 『清純少女歌手の研究』 1987年 青心社 120頁)。〕。1980年代は『金曜日の妻たちへ』などのテレビドラマに出演。1990年代は幸福の科学の人物として知られた。 ==経歴・人物== 広島市の生まれ〔#美しく34、236、237頁〕。3歳の時、東京王子に転居〔。北区立王子小学校の同級生に羽田健太郎がいる〔#美しく45頁〕。 バレエを習いながら小学校5年の時東宝児童劇団に入り1960年、日本テレビドラマ『ママちょっと来て』でデビュー〔。 子役としてドラマの出演の他、精華学園女子中学校在学中から日本テレビのバラエティ番組『九ちゃん!』の司会などで活躍〔。1965年16歳で東映にスカウトされ入社。同期に大原麗子らがいる。『悪魔のようなすてきな奴』で映画デビュー。『』(新人賞受賞)、『続・大奥物語』の主演など3年間に10数本の映画に出演。また1965年、TBS『夢のスタジオ』の司会を久保浩と共に務める〔#美しく60頁〕。1966年久保浩と一緒に歌ったリズム歌謡「恋旅行」を初シングルとしてビクターから発売する。1967年精華学園女子高等学校卒業。青春路線をやるという約束で東映にスカウトされたが、結局、青春ものは1本もやらずに、いやらしい題名の映画(『尼寺物語』)をやらせようとしたと、18歳で単身東映本社に乗り込み東映と契約を解消した〔#美しく54、65-70頁〕。東映との契約はまだ2年以上残っており、すぐに東芝から歌手デビューしたこともあって、小川の振る舞いに当時のマスコミは散々叩いた〔#美しく68頁〕。 1968年、「ゆうべの秘密」で正式に東芝から歌手デビュー。オリコン1位を獲得するヒットを記録。 この曲は南米コロンビアでも70年代初頭に「Amor japonés」("日本の愛"の意味)という題名でヒットした。小川が歌唱したものだが、「AKAINA AKOMOTO」という歌手が歌ったことになっており(TOMOKO OGAWA が変化したものと見られる)、日本からどのようにしてこの曲がコロンビアに広まりヒットしたのかは不明である。 なお「ゆうべの秘密」レコーディング時には熱を出していたために、「吐息タッチ」な歌声になってしまったという。それでも男心をくすぐるその歌声で一躍人気者となりヒット曲を連打、『NHK紅白歌合戦』には1968年から1970年まで3年連続出場した。『夜のヒットスタジオ』の第1回放送にも出演。俳優時代の演技力を生かし『夜のヒットスタジオ』の挿入コントの柱となり、『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』などでもコントを演じた〔#全集165-166頁〕。 1968年人気絶頂時に兄と20日間海外旅行。当時芸能人が長期休暇を取得することは異例だった〔#美しく71-72頁〕。ミニスカートが流行りはじめると最も早くこれを取り入れる〔#美しく60-61頁〕。 18歳の時、キャンティで知り合った恋人のカーレーサー・福澤幸雄(福澤諭吉の曾孫)が1969年2月、テスト走行中に事故死。直後の『夜のヒットスタジオ』収録で「初恋のひと」を歌いながら泣き崩れた事件は、テレビ界に衝撃を与え、伝説化した〔。 1970年代に入ると、再び映画・テレビを中心に活躍。映画では『「されどわれらが日々」より 別れの詩』(1971年)のヒロインを演じ、日本で人気があったフランス人俳優ルノー・ベルレーと共演した『恋の夏』(1972年)などに主演。 福澤の死から3年経った1973年、福澤が愛し、奪った世界をしっかりこの目で見てこの手で記録し、そして乗り越えたいと、自ら出演、監督、主題歌、撮影、録音、編集をこなしたドキュメンタリー『マカオ・グランプリ』を撮影〔#美しく89頁、主題歌のタイトルは『さよならマカオ』であるが、著書には映画のタイトルは『マカオ・グランプリ』と記載している。〕。また実年齢より落ち着いた色っぽい大人の女性の雰囲気を持ち、20代半ばでダイハツの初代シャルマンのイメージキャラクターなども務めた〔1960〜70年代の雑誌広告 ダイハツ編 〕〔1960〜70年代の雑誌広告 ダイハツ編 〕。1975年当時としては珍しく個人事務所を設立〔#美しく131頁〕。テレビでは1983年から放送を開始した『金曜日の妻たちへ』などの不倫ドラマが有名。また『夜のヒットスタジオ』では、谷村新司とのデュエット曲「忘れていいの-愛の幕切れ-」(1984年)を歌唱中、谷村が小川の胸元に手を忍び込ませ、大きな話題を呼んだ。 1977年、俳優・林与一と結婚するも後に離婚。その後、美術評論家の伊東順二と再婚した。 1991年、作家・景山民夫と「幸福の科学」の広告塔となり「フライデー」の記事に対する講談社への抗議活動を行う(講談社フライデー事件)。闘士の如く絶叫し、マスコミに大々的に取り上げられ、世間の話題をさらった。この事件後、マスメディアの露出が極端に減ることになる。その後、1998年に景山が火災により死去した際には、「馬車に導かれて昇天する景山氏を見た」と極めてオカルト色の強い発言をした〔あなたの想い出 〕。 1994年、ドラマ「命ささえて-ママ、パパはエイズなの?」で日本民間放送連盟優秀賞を受賞。 1996年の夏、公私ともに親交のある歌手の美川憲一と共にフジテレビ「世界の超豪華・珍品料理」で蛇料理を食べさせられたことがあったり同「第20回爆笑!スターものまね王座決定戦」審査員、テレビ朝日「徹子の部屋」出演など、露出が減っていた時期にバラエティ・トーク番組のゲスト出演を積極的に行っていた時期もあった。 2000年代頃から歌手活動を再開し、2006年には『玉置宏の歌のアルバム同窓会コンサート』で、橋幸夫、錦野旦、フォーリーブスらと全国をまわった。 カラーコーディネーターの資格を持ち、多方面で活躍している。 幸福の科学の月刊誌「アー・ユー・ハッピー?」で2010年7月からエッセイを連載している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小川知子 (女優)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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